こうして百里園の経営は、ほとんど園長の気賀林の手に移っていった反面、その支出も甚しく、県は茶園維持費として八千円を十四年より十八年まで五か年間無利息据置き、十九年より四分利付を以て同二十三年迄五か年賦返納の約をもって貸与し、その抵当として公債証書七朱一万一千二百円貸与の金額はことごとく右の公債証書を購求し爾来その利息をもって茶園の培養に充て(『関口元老院議官地方巡察復命書』)たりしたのであったが、必ずしも当初の計画のごとく利潤があがっているわけではなかった。当時、このころまでに気賀林個人が投じた金額は三万余円に達したのに、明治九年より十一年までの収入は四千七百余円といわれる。