つぎに士族の状況をみると、例えば間宮鉄次郎はこのころより剣術の師範と普及に力を尽すようになっており、また明治十年西南戦争のさい鉄次郎の長男勇太郎はじめ三方原士族三十五名は新撰旅団巡査の応募をしており、ようやく茶園開拓の意欲を失うものが現われてきている。これは反面には開墾の労働力を失うことを意味した。それが原因かどうかは分らないが、十四年十二月に官有園に如鉄社(前述)という社号を付し、その社の名儀で、士族たちに「如鉄社共有茶園五拾町歩ハ三方原開墾栽茶規則第四条に依り分割」(『百里園如鉄社地所分割規則』)し、開墾のための「御貸与官金」の一万余円は十五年から四十四年までの三十年間に分割を受けた者(永小作人)が年賦として返却することとし、以後「永小作人」の自費をもって耕作させることにして、翌十五年三月には県より許可を得ることとなった。しかし「三方原茶園ハ近来士族ト農民ト分離シ」(『関口元老院議官地方巡察復命書』)ようとしていた状況よりみて、この計画が必ずしも成功したかどうかは疑問である(十六年六月に三方原士族のうち無職三三名で雑業六八名、雑業の種類は分らない)。
【気賀林死去】この年十五年三月気賀林はその長子半十郎(明治十二年引佐麁玉郡長、同十四年敷知長上浜名郡長、第二十八国立銀行取締役)を失ったが、十六年四月二十三日に気賀林も死去した。七十四歳であった。県は気賀半十郎(林の養子、半十郎を襲名、明治十六年第二十八国立銀行頭取)・二男気賀鷹四郎にその後を委嘱しようとしたが、半十郎らはこれを固辞している。そこで県は長上郡内野村横田保に百里園長を命じた。【気賀林碑】なお気賀林の碑は明治二十四年五月に建てられ「三富翁之碑」といい、三方原に現存している。