三方原沽券地改正絵図 三方原の村名

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 こうして気賀林を主とする三方原茶園経営は終り、第三期の横田保の時代に移るのであるが、その前に現存する沽券(こけん)図によって開拓の状況を述べよう。明治八年地租改正のさい、三方原入会地(『浜松市史二』参照)は民有の証が明らかでないとして官有地第三種に編入され(『浜名郡誌』)、開墾地のみに地券が交付された。この沽券図はそのころの図と推測され「三方原沽券地改正絵図面」とあり、当時の状況がよくわかる(前掲「三方原開拓部分図」参照)。【六百五十筆 九十二町歩】図は一部が欠損しているが概算筆数が六百五十、地番は一番より七九九番に及び、登録人名数は士族平民をふくめ四百六十余名で、地積合計九十二町歩余である。これには屋敷地・開墾地・開墾予定の荒蕪地もふくまれており、荒蕪地の三十二町歩を除去すると、当時の開拓は必ずしも予定のように進んでいなかったことが判明する。最大が気賀半十郎の一万五百四坪で最小は百坪、六百坪以上が百十一名、二千坪以上は十九名で、気賀半十郎ほか江川永脩九千六百七十五坪、気賀林六千六百四十三坪、間宮鉄次郎六千五百六十二坪、原良平四千四百八十四坪、仁科鉱司三千九百坪、佐藤清典三千六百坪、能勢正直三千二百四十五坪、小櫛捨三三千百四十五坪などである。ちなみに岡田胤正は二千四百坪であった。三方原に村名を付したのが明治十三年(『静岡県市町村合併沿革史』『浜名郡三方原村誌』、『浜名郡誌』には明治十二年とある)といわれるが、多くの士族が離散したのちも留って産を成し村会議員等をつとめ三方原開拓の功労者となった横山義珍(大正九年二月没、六十六歳)はこのとき二百八十六坪、これも横山義珍とともに隆栄講という講を村民のために組織した功労者で内野村出身の大久保牧太(明治四十一年四月没、六十六歳)はこのとき千二百坪であった(『三方原村沿革史』)。【江川永脩】なお江川永脩(隼太)は三方原大谷の険路を修繕したといわれるが、明治十年ころ去っている。十三年に両国森川町松本平吉発行の浮世絵に出ている人である(白柳秀湖『山水と歴史』)。