【十七年】明治十七年の三方原の茶生産額は六千三百二十貫(価格七三八〇円)、この額は当時の浜名浜松の生産額二万八千八十貫(価格三三五四九円)に対し二十二%であった(『静岡県茶業史』)。年生茶収穫八千七百三十九貫、焙炉数百八十八個と増加したので、新に製茶場の建設に着手したが十月十五日の暴風で倒壊、十二月にいたって新製茶場が落成した。これが百里園製茶所で(明治四十五年焼失)、馬渕平八を責任者においた。金指往還に面し、面積三千四百二十坪、そのうち工場坪数千三十坪(右図参照)であった。横田保の出資によるものであった。このころになると百里園の経営は実質には横田保の個人経営に等しかった。
百里園横田保製茶場