緑茶伝習所 経営困難

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 【緑茶】保は十九年愛知・三重・滋賀・京都の茶業を巡察し、翌二十年百里園に緑茶の伝習所を開設した。【紅茶】また紅茶にも関心をもち二十三年は紅茶の伝習所も設けた。こうして二十七年の製茶生産額は五万貫であったという。二十八年化学肥料試験所を設け(『内野周辺昔話』)、三十年には農商務省嘱託として支那に赴いている。なお、緑茶製造所(伝習所)は明治二十八年まで継続した(『静岡県茶業史』)。【横田保死去】こうして三方原村は明治三十四年は士族平民合わせて百六十戸、人口八百(男四八〇、女三二〇)、茶園三十五町歩に達したが(『浜名郡三方原村誌』)、百里園茶園の経営状況ははかばかしくなく、その放棄を考えた保は御料局に買上げの申請の意図を洩らすにいたったが、翌三十五年十月七十一歳で死んだ。

[図]

 保(天保三年八月生、保兵衛、気賀林の親戚)は、明治四年(一八七一)、出身地の内野(うちの)村に十二町歩の茶園を設け、三町歩の桑園を拓き、製糸場も設けた。翌五年には落花生・油菜を試作したという。当時内野は金指・気賀をへて吉田に通ずる要路であったので、それに通ずる道路をつくる手はじめとして内野から幅四間(約七・二メートル)、延長二里十六町(約九・六キロメートル)の新道を開いて三方原に通じさせた。いわゆる「三方原茶園道」(明治十八年建碑)で保は自宅からこの道を茶園に通った。いわゆる世人はこれを「横田道」といったという(『嶽陽名士伝』『横田保君小伝』『静岡県人物誌』)。【横田保碑】保の碑はいま三方原に建っている。

横田保