つぎに三方原入会地はどうなっていったか。さきに記したように明治八年地租改正のさいに入会地は民有の証が明らかでないということで、官有地第三種に編入されたのであるが、その後に一部は旧例によって入会村(『浜松市史二』参照)に拝借を許可され、一部は官林に編入されたのであった。しかし二十二年九月には何れも御料地に編入されて帝室財産となり、ついで拝借も停められたので、入会村は刈草による肥料の供給の途が絶え、農事にさしつかえることになった。そこで三十五年一万余人連署して、旧のごとく秣場に貸与されるよう請願したが、採用はされなかった(『浜名郡誌』)。