農業の発達

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 気賀林・横田保はすでに亡く、士族のほとんどが四散したこの期は、この不毛の地に根をおろし額に汗して鍬をふるった人たちによって開拓されていった時代であった。【大根 西瓜】茶園ばかりでなく、すでに前期から栽培が試みられた甘藷をはじめとし西瓜・蕎麦・大根・陸稲・大豆・小麦などと栽培物も多様化してくる。ことに甘藷と切干は明治四十三年三方原農会の初代会長となった福田広吉らの、また西瓜は丸山栄吉の力が大であったとされている。しかし水の利便のないことは、なんと言っても開墾の大障害であった。かねて三方原に水を通ずることを考えていた金原明善が「金原疎水財団」の設立許可願を県に提出したのは明治三十七年四月であった(後述、本節第三項参照)。