すでに父の家業を継ぎ安間村の名主であった明善が、「民政局へ防水ノ儀建言」(明治十一年「家産献納願」『金原明善』)のため上京したのは、慶応四年(一八六八)三月十一日と閏(うるう)四月の二回で、すでに三十七歳であった。【摩訶庵蒼山】明善はこのとき「維新万機御親裁被仰出、言路洞開ノ御時節、千載ノ一期ト奉雀躍」と上京したが、「三州吉田裁判所ニ可願出」と申し渡されて帰宅した(このとき案内として同行したのが旅の俳諧師摩訶庵蒼山で、当時京都には蒼山の師桜井梅室の息村岡聞多がおり、新政府への紹介の労をとったという。村岡はのち桜井能監と改名。なおこのときの上京は主家松平家存続願が主目的であった、という)。そして閏四月の吉田裁判所への再出願となった(「家産献納願」『金原明善』)。この辺の事情につき『浜松藩記録』(『浜松市史史料編五』)には「天竜川除堤普請之儀定掛場与唱、是迄旧幕府ニおゐて普請役罷越(中略)今般御一新ニ付而者旧幕府仕来之通、従 朝廷御普請被成下候様仕度段、同川西縁川付村々御料私領給々百五拾ヶ村惣代を以、河内守役場江歎願書差出候ニ付、閏(うるう)四月中吉田表御裁判所ニ願書絵図面添差出候処、御請取相成候」(御名家来大石括之丞より弁事御役所宛書簡)とみえている。明善が出願したというのは、右文書にみえる惣代のうちの一人であったろう。
(表)金原明善略年譜 (鈴木要太郎『金原明善』)
年次 | 年齢 | 事項 |
天保三年 | 一 | 六月七日、長上郡安間村生 |
元治元年 | 三三 | 横浜に遠江屋開業 |
明治元年 | 三七 | 京都に上る |
五年 | 四一 | 天竜川普請専務仰付 |
八年 | 四四 | 治河協力社成立 |
九年 | 四五 | 水利学校創立 |
一一年 | 四七 | 明治天皇、協力社、拝謁 |
一二年 | 四八 | 天竜川治水財産寄付 |
一三年 | 四九 | 静岡勧善会設立 |
一四年 | 五〇 | 合本興行社設立 |
一七年 | 五三 | 東里為替店開業 |
一八年 | 五四 | 東京在住はじまる |
一九年 | 五五 | 瀬尻官林改良事業開始 |
二〇年 | 五六 | 金原山林経営 |
二五年 | 六一 | 天竜運輸会社設立 |
三七年 | 七三 | 金原疏水財団設立 |
四一年 | 七七 | 和田村村長 |
大正一二年 | 九二 | 一月十四日、東京府下渋谷で没 |