直流岩積式工法

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 この行幸が終ると天竜川の治水は忘れさられた状態になり、静岡藩もそれをかえりみる余裕もなかったが、ようやく明治四年になっては藩役人水利郡方御頭福岡久に命じて天竜川治水策を講ずることになった。このとき諮問にあずかった明善は、福岡を実地に案内し、かねての抱負であった「直流岩積」式工法を献言した。これは天竜川下流の鹿島(かじま)と掛塚(かけつか)間七里の河巾を定め直流化させるとともに、両岸を岩石でもってたたむという工法である。このとき明善はこの方式が採用されるならば今後年額一千円ずつの献金をすると申し出たという。福岡は明善のこの工法を採用し、五月には明善を水利郡方掛付属各村堤防重立取付役に命じ、御蔵番格という役人に任じるとともに、福岡の配下に属せしめた。天竜川の治水策が本格的に始まったのは、このときといってよいであろう。しかしこの事業は福岡の転任によって中止されることになった。そしてまもなく浜松県時代となった。