六年二月、明善は前の役を免ぜられ県から「天竜川通普請ニ付格別奇特之取計有之ニ付」「水利堤防之義ニ付見込之趣有之候ハ、堤防掛江可申立」として天竜川通総取締を命ぜられた。このときかねての持論である天竜川東支川の締切り工事計画を県へ提案した。これは当時天竜川は掛塚付近において東西に分流し、西が本流をなし東が支流をなしていたのを、明善のいわゆる「直流岩積」方式によって、東支流を締切り直流化しようという案である。しかしこれは掛塚港への水路を絶つことになるので、掛塚村民のあげて反対するところであった。そのため県がこの案を採用し実地検分使の派遣を決すると聞くや、激昻した掛塚村民は金原家の襲撃の計画をするに到った。途中で村民が引き返したため大事には到らなかったという。このためにこの計画は中止されたが、このような明善の治水計画には長年天竜川沿岸に住む住民の利害得失と相容れられないものがあり、やがて沿岸二百三十六か村の総反対運動に激化していくのであった。