明善はこのような状勢にかんがみて、わが抱負を実現させるためには同志の共同事業によるしかないと考え、明治七年六月県の許可を得て天竜川通堤防会社を創立し、自らその社長に就任した(会社といっても商法による会社と異なる)。その事業として明善の考案になる「直流岩積」式工法によって両岸に堅固な堤防二万間(約三六キロメートル)を二十五年間の継続事業として完成せしめる。【資金調達】そして①明善の趣旨に賛成する同志よりの共同出資金(三万五〇〇〇円)を積立てて資金とし②県から受ける補助金で当分の工事を施行。③堤防の空地を県より借りて小作地となし、その小作料二十五年間の積立金九十三万七千五百円をもって、総費用概算八十八万六千三百円に充当させるという主旨であった。しかしこのような計画がどの程度実施されたかは明らかでなく、とくに出資金は安間村村越伊七・与七の百五十円、有玉下村の伊藤栄三郎の十円の出金があったくらいであった。さて天竜川通堤防会社はまもなく内務省の指示によって治河協力社と改称した。これは従来の名称では免許による営利会社と誤解をうけやすいので公益事業であることを明らかにするための改称であった(鈴木要太郎『金原明善』)。【八年】明善は明治八年三月浜松県へ改称願を出すとともに翌年四月には治河協力社総裁専務に任命され、さらに天竜川堤防取締役に命ぜられた。なお社長は横田隆平であった。しかし依然として沿岸住民よりの共同出資金は集まらず、明善は各小区より治河協力社員一名を公選によって選出し社内に水防委員会を設け資金を得ようとしたが、それも成功しなかった。沿岸の住民からいえば、各村々には長い間の水利慣行があり水防組合もあることであり、明善の独走ともみえる治水計画に対して容易に賛成しがたいものがあったのである。