治河協力社の経営困難 家財の献納

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 そこで明善は明治十年三月総裁専務を辞し自ら社長に就任し、社内の結束強化をはかるに至った。それでも資金は集まらず、内務省は天竜川改修費の削減を行うし、治河協力社の事業はますます困難を加えた。しかも明善の素志はいよいよ固く①伝来の財産を工事費として国に献納し②政府からは二十年間毎年二万三千円すなわち四十六万円の下付を受け③天竜川の工事一切は治河協力社が委任を受けて施行することを立案、政府にこれを陳情しようと決意するにいたった。ときに十年十二月明善は妻玉城を伴ない上京し、かねて知己であった川村正平の紹介で土方久元にあい、その口添えで二十六日内務卿大久保利通に面会し、その覚悟を陳べた。そして県へ出願、十一年六月にいたってつぎのような趣意の指令があった。すなわち、①家産概算悉皆凡六万三千五百十六円七銭七毛のうち、家族の資本として二千五百円を引いた残を国へ献納したいという願いであるが、詮議しがたいのでこれは直ちに治河協力社へ出金すること、なおその際子孫保続のため五千円を差引いて下付する。②天竜川二俣村以下掛塚村に至る防水堤防工事を治河協力社へ委任することは許可しがたいが、修営の請負は申しつけるから、その工費として十年間を限り年額金二万三千円を下付する。③天竜川架橋の永世免許は許可できない、という主旨であった。明善はこれを受諾し、八月に家財悉皆を治河協力社へ目録をそえて差出し、協力社からは子孫保続金金五千円(第二十八国立銀行株)そのほかに生活費の金二千五百円を現金で受領した。【献納の条件】十二年三月明善は治河協力社から家財に関する盟約証を受け取っているが、その要旨は①金原家家産の内金五千円は子孫保続金として受領し②治河協力社は、金原家から受けた耕宅地反別二十三町余については金原家の子孫が希望の際は元値(差出した代金)をもって売渡し他売はしないというものであった。【十湖の評】しかし、このような家財献納の方法などについても、売名的山師的なりとして松島十湖のようにこれを非難する者や、共同出資者のなかにも「明善は自分たちの意見をききいれない。明善は己れの利益と名誉のために治河協力社を利用する」のだとして県知事へ訴えるものが現われたのも事実であった。

金原明善屋敷