金原疏水財団 十湖の評

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 明治五年十月に明善が天竜川を西鹿島で締切りその水を分ち三方原より浜名湖へ落とす計画を献策し、それが採用されなかったことは前に述べたが、二十八年九月になると計画実現にとりかかり浜松町に天竜分水準備事務所を設けその設計に着手し、三十七年五月「天竜川ヲ分水シテ三方原ヲ貫流セシメ原野及耕地ニ灌漑ノ便ヲ与ヘ工業ヲ奨励スル為ニ廉価ノ動力ヲ供給シ及公衆ニ運輸ノ便ヲ供スル目的ヲ以テ」(「設立願」)財団法人金原疏水財団設立の許可を得た。
 
【三十七年】財団の基本財産は、金原林と称する「山林凡ソ壱千百余町歩」を「自家ノ財産ト視做サ」ず、明善が寄付した私産をもって充て、事業はその山林が「完成ニ必要ナル費用ヲ支弁シ得ベキ価額ニ達シタル時ヲ以テ分水事業ニ着手」することと定めて、事務所は浜松町利町に置いた。理事には金原巳三郎(明善の養孫)・鈴木信一など五名が選任された。【明善ノ事終ル】明善は財団設立の許可を得た後に、「右ニテ明善ノ事終ル」と感懐を洩らしている。しかし十湖などは、明善はその子明徳が後をつぐにたらないので養孫巳三郎に事業方面をゆだね、財団の設立は私産をその子孫の自由にならないようにするための保護手段だと批評している。また財団の営林作業は下刈り枝打ちの労力確保に追われ、経営は赤字になやみ分水計画にまで手が廻らないのが実情であった。
 
【耕地整理援助】その後、浜名平野灌漑用水の声が高まり四十三年に浜松町外十四か町村組合の浜名耕地整理組合が設立されると、財団はこれに対し国県の補助額と同様の補助金をだしてこれを援助したが、同組合は安間川口逆水門工事などをしたのみで、大正五年解散となって終った。