維新の当時には教育機関として藩校・郷学校・私塾・寺子屋などがあった。
藩校としては、静岡藩が明治二年に藩の子弟のため各地に設けた修業所があった。浜松では城内本丸に設置され、これを御家人学問所と称した。浜松県に受け継がれた当時、教官二十五名、生徒現員五百九十人あった。門戸をひろげ一般の有志者の勉学も許し、六年五月浜松学校(城内三の丸)に併合されるまで在続した(四年三月当時に教員は全部士族、その名簿は省略)。
堀江藩には館山学舎があった。藩の廃止とともに廃校となったが、教員に三宅均(引佐郡刑部村生、僧侶、号凹山(おうざん))・赤尾憩(敷知郡呉松村生、僧侶のち神官、明治三十年没、六十六歳)があった。