さて、ここで当時の浜松県をみると、五年正月から管下の学校費・教育費等の取調書を上申したり、従来の学校に閉鎖を命じたりして学校創設の準備をしていたが、本格的にその準備に着手したのは県令林厚徳が五年十一月に任命されてからであった。【学区取締】ただちに東京師範学校へ教員(曽我準平・小野成美)を派遣して学校制度や教育内容の下調査をさせ、六年六月小学創立の布達を出すとともに県学務係に管内を巡視させ義務教育の必要を説かしめ、戸長を召集して学校設立についての理解と協力を求めるとともにその意見を聴取し(これは当時として極めて民主的な方法であった)、民間の有識者を学区取締(四〇名内外)に任じて小学校の設立や就学の督励にあたらせ、奨励大いにつとめるところがあった。その結果七年三月には本校七十六校・支校二百四十九校に達し、その普及まことにめざましいものがあった(『静岡県教育史』)。しかしこのように支校の多いのは望ましいことでなかったので、「有力之強村」は一村で、「微力之弱村」は五か村ないし十か村で合併して独立学校を創立(八年三月「布達」)するよう奨励するところがあった(『文部省督学局年報明治七年第二大学区巡視状況』以下『文部省巡視状況』と略す)。【大江孝文】なお、これには権典事大江孝文(元徳島藩士、文政十年生、浜松廃県後田町六七番屋敷に住みのち東京へ移る。明治二十六年没、六十七歳。和歌国学に秀づ)・県中属笠原光雄の督励があずかって力があり、その態度は「往々高圧的手段を意となさ」なかったので、県民は雷典事と称した、という。また民間の協力も少なくなかった。【下堀学校】当時の学校の建設は地元負担が建前であったが、下堀村では小区長竹山梅七郎が率先して小学校設置の議を起こし、有志者に学校維持資金を寄付させたり、上地となった神社・仏閣の朱印地の払下げをうけてこれを教育資金とすることによって、六年八月二十一か村をもって下堀学校を創立した(『天王・市野・蒲村誌綴』)。天王新田の中村省吾は六十歳であったが、教育費として一日金六厘の割合で本年分二円二十五銭、八月より年々一日一毛ずつ増加し、生涯の寄付を申出たという。十四年に同校には教育費として寄付金百四十二円余、授業料総計九十二円余の収入があったのに対し文部省補助金二十三円余であった。維持のなみなみでなかったことがわかる。
【安間学校】安間学校では、金原明善は自らの寄付金千四十円を含め千七百十三円余を集める一方、六年二月三方原御長屋の一棟を六円三十七銭余で払下げを受けている。このとき三方原居住の士族は「車馬ヲ引キ僅ニ活計ヲ補ヘハ他ニ報ユヘキ力ナシ、聊力ヲ労シテ此挙ヲ助ン」と運搬に協力したという(明治六年五月『浜松新報』)。
【内野学校】内野学校も高林維平と横田茂平が先に立って学資金や区費補充の目的をもって八年六月積志講社を設立している(『高林日記』『積志村誌』)。県もまた金銀盃とか褒状を与えこれに報いた。明治六年より七年までの学資金寄付状況によると寄付総人数五百二十七人に達している。また金品ばかりでなく学校備品・書籍等を寄付する例もみられた(浜松学校への寄付については後述する)。