通学区 経営困難と内紛 浜松尋常小学校

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 さて、通学区であるが、小分区(一番より一六番まで)と小分区との関係は明らかでない。おそらく三戸長役場制の所轄区域(前述)とほぼ同一であったろう。学校経営資金も不足がちで、十三年ごろには浜松学校の備品類差押え事件がおこり田町笠井屋小野江善八の配慮で危機を脱したと伝えられている(明治十二年教育令公布、前述。『日本民声新聞』)。これについては明治十七年の関口元老院議官地方巡察復命書にも浜松学校は「男女両校ニ分チ、従来盛ナル学校ナリシカ、当時資本積金ノ支払上ニ故障ヲ生シ、学務委員及教員中互ニ不和ヲ生シ、為メニ授業規則モ厳密ニ行ハレス。生徒ノ進歩上ニ障碍ヲ与フル事少ナカラサル景況ナリ。然レトモ其故障解キ難キノ事ニアラスト言ヘハ不日復タ盛大ニ赴クヘシ。現今学齢人員千九十三人男五百七十三人(ママ)女五百二十一人内就学六百八人不就学四百八十五人」とある。修道学校・明倫学校・浜松女学校の三校は、十九年四月小学校令の公布をみると、浜松学校に併合され、浜松学校は浜松尋常小学校と改称した(浜松髙等小学校は後述する)。