五月一日開校、六月末には第一回下等小学修了生が巣立っていった。九年一月の学校規則改正によって、在学期間も予科は二年、本科は八か月となり、本科第一回卒業生が出たのは九年四月であった。しかし、こうして発足した浜松瞬養学校も浜松県の廃止によって静岡師範学校に合併され、静岡師範学校浜松支校となって終りをつげた。【変則中学】ついで浜松支校は明治十年六月浜松変則中学校と改称され、師範学科も併置となった(修業三年で区貸費生と私費生を緩養師範生徒といい、修業一六か月の全科速養生と八か月の下等速養生を速養師範生徒と称した)。この変則中学校も十一年三月には浜松中学校と改称(同十五年には緩養生は四年間で髙等師範科卒、速養生は二年半で中等師範科卒)された。ついで県下の中学校が明治十五年県立より町村立に移されると、浜松中学校は同十六年二月に長上・敷知・浜名の三郡の町村立校となったが、維持困難のため十七年には再び県立校にもどり、掛川中学校を併合した(十九年)。しかし、勅令第十五号一県一中学制により十九年七月県都静岡の静岡中学校へ併合という形で、浜松瞬養学校以来続いた浜松中学校も変転多い長い幕をとじた(『浜中・浜一中・浜北髙年表』)。変って郡立高等小学校が浜松に創立されるが後述する。
【渋江保】瞬養学校について忘れることのできない人物に渋江保がある。東京師範学校を卒業し八年二月文部省の命によって浜松県に赴任した。ときに十九歳。保については森鷗外の『渋江抽斎』に詳しい(菅沼五十一『遠州文学散歩』)。新しい実物教授法は保によって導入されたといわれる。十二年十月東京へ去った。杉原正市(弘化四年生、徳島県士族、昭和二年没、八十一歳)も教員の一人。三十歳。のちに浜松中学校長を勤めた(『浜松北髙等学校八十年史』)。このほか、竹内正俊・藤川春龍(『浜松市史二』)などが教鞭をとった。瞬養学校に学ぶものに赤尾憩(呉松)・石塚次平(堀江)・水谷義知(浜松)・戸倉能利(上都田)・真瀬鼎(内山)・鹿野角(元井上藩士、新橋)・堀野金蔵(万延元年村櫛生、気賀・村櫛小学校長、明治四十四年没、五十二歳)・小林繁旧幕臣、日比沢学校教員)・岡田某(和地山士族)、異色のものに八王子同心で明治初年に内野へ移住した常盤大作(八王子小学校教員となる)があった。
そのほか明治初期には県立浜松病院内に設立された附属医学教場通称浜松医学校(第四節第六項「近代医療と浜松」参照)や金原明善による水利学校(第二節第三項「金原明善と治山治水」参照)などがあった。