私塾も県の認可を要することになったが、浜松には長尾学校・浜松女紅場・不如学舎・浜松英学校などがあった。長尾学校は十年九月長尾ワキ女(天保二年生、明治二十四年三月没、六十一歳)の創立、浜松紺屋町にあった。旧幕臣、明治初年入野へ移住。のち早馬に移り夫景福(かげとみ)の塾を助けた。浜松学校教員勤務ののち長尾学校を開いた。生徒数常に六十名から百二、三十名、薫陶をうけた浜松の子女千二、三百名にのぼるという。ワキ女の死によって廃校となった。謝恩碑(明治二十年建立)が高町半僧坊境内にあった(戦災で破壊。大正十五年発行『浜松市史』)。永田ふく(士族、文久二年江戸生、昭和十九年没、八十三歳)は浜松学校勤務、夫に先だたれ板屋町の南能庵(大聖寺)で明治二十年ごろ塾を開いている。浜松女紅場は明治十一年二月の設立。浜松伝馬町にあって読書・裁縫を教えたという(『静岡県統計書』『静岡県教育史』)。