浜松県は女子教育の必要を認め、明治六年三月に横田保(内野)の著『女子教育趣旨書』を管下町村に配布し就学を奨めるところがあったが、八年にいたり岡田良一郎の建議により、「女学振興ノ為」浜松城内(三の丸)の小学校の向い側に女紅場を設けた。女紅とは「女巧」すなわち家事裁縫をさす語であり(『静岡県教育史』)、授業は毎月八時間で、定員は百名、寄宿舎の設備もあったという。また伝馬町にあった女紅場は、芸妓を対象としたものであったと伝えられている。こうした女紅場の名はやがて消えていったが、後年の「平田の女学校」「常盤の女学校」のように女子技芸学校の先駆をなしたのであった。