成熙社 教員研修所 小学会議

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 浜松学校教員鈴木忠篤が中心となって長上・敷知・浜名の三郡のほか引佐・磐田郡へも呼びかけて教員の親睦を旨とする成熙社をつくったのが明治七、八年ごろであった。県も九年五月教育会構想の仮規則を布達しこれを奨励しようとしたが、浜松県の廃止によって頓挫をきたした。その後、静岡県による教員研修所が地区別(八地区)設置をみるにいたった。浜松地方へは浜松地区に第一師範浜松支校(所属一二校)・第二宇布見黌(所属八校)・第六金指黌(所属一三校)・第八内野黌(所属一〇校)が設けられたが、これが浜松地方教育会の起源となった(『雄踏町誌』)。十一年に小学会議がおこり、現場中心の自主活動機関となったが十七年で廃止となった。時習教育会や西遠私立教育会の創立をみたが、ようやく明治の後半期にいたり統合のきざしが見えてくる。