滞在も長くなると止宿先といろいろ摩擦もできるし、しかも居食の生活なので、ひまにまかせて大勢で高吟し「遊歩」して風儀を紊するものもでてくる。一刻も早く職業を与えねばならないというので、明治三年四月二十一日に「浜松調所」は「銘々内職之儀兼而心掛候由ニ候得共、土地不案内等」にて困却している者に対して、浜松宿愛宕坂下の庫次郎宅を借りて応急の内職斡旋所を設けることになった。これが「勧工所」である。【職業補導】すでに内職の覚えのあるものには「道具又は元銭等を貸渡」したり、妻子にも「勧工場へ罷越稽古可致」ように奨め「熟業之上は拝借、御長屋又は旅宿ニ持帰り内職」することを許し、その製品は「町人共話合等筈ニ候得共引合向々却而掛リ役江申談」(『江川文書』)「町人共ニ直引不相成事」として、買いたたかれるのを防ぐことにしたり、また扶持米(ふちまい)を浜松の米穀商へ持参し現金化しようとし時価との折合がつかず困るものには勧工所が斡旋し、扶持米をあてにして前借することを禁止し、士族の生活保護につとめた。しかし効果はなかったようで、なかには「遊歩して」風儀を紊すばかりか旧報国隊士の居宅を襲うものもあり、同年十二月に静岡藩の「浜松調所」が最近浜松宿内で「追剝押入様之儀致候もの有之」それが「皆御藩士之由世評相聞」くが、それでは「御藩を汚す」(『飯田文書』)ことになるからと内々に触書を出すという状態であった。