浜松県も明治六年に県下の浜松をはじめ六か所に士族の授産所を設け、その救済にあたることになったが、その詳細は明らかでない。なお明治六年一月、富岡製糸工場(群馬県甘楽郡富岡町)には浜松より士族出身の工女十二名(全国で四〇四名、駿州出身者六名)がおり、製糸術の伝習をうけていた(加藤安雄『富岡製糸所』)。つづいて浜松県が「大ニ工業ヲ開明シ各ヲシテ其産ヲ得セシメンカ為ニ」従来の勧工所を改め、産業所を浜松(和地山)・懸川(かけがわ)に設けたのは、七年三月であった。県はその年の六月坐食の士族へ対し特に「一日モ徒然光陰ヲ空フセス、父兄子女相共ニ産業所ニ入、機杼紡績百工万技業ヲ受産ヲ興シ、父母ニ事へ、妻子ヲ育シ、永ク後栄ヲ図ル可シ」と告諭まで出している。その資本は石高利金及び資産貸付金を充て県の勧業係が管理した。女子は十二歳、男子は十四歳で入所を許し、六か年をもって定限とし、女子は紡績・織機・裁縫・養蚕を、男子は細工・染物・網スキ・鍛冶・綿打・莨切(たばこきり)・傘張(かさはり)をもって課業とした(「静岡県治紀事本末政治部」『明治初期静岡県史料第二巻』)。しかし、八王子千人同心飯田森次郎の場合は、当時十九歳家族二人とともに浜松へ着いたのは明治三年六月三日で、平田町勘十郎へ割宛によって止宿し、浜松勤番組へ編入となった。【塩田開発】職がないので翌四年「新橋村海岸市村□塩浜組合」へ「塩 製仕度」と旅宿割替を願い、三月新橋村藤三方へ移った。当時大通院(当市新橋町)が扶持の取扱所で、ここで扶持を受取ったりしたが、生活の前途に希望を失い、やがて故郷へ戻っていった。なお、塩田は明治三年五月に浜松勤番組が、弁天島北浦(浜名郡舞阪町)に開発しようとする計画があったが、舞坂宿ではこれは無法であり「御取立之儀は御免被成下様」回答しているのでも分るように、舞坂でも失敗に終ったのであった(『舞阪町史史料編六』)。
こうして折角移住してきた士族も明治五、六年ころには各所へ四散していくというのが実状であった。なかには下付された土地屋敷にそのまま居着き生業を得て、立ち去った士族の跡地を買いもとめなどして生活の安定を得たものもあった(廃刀令は明治九年三月)。