石川雅長は、会津藩少年隊の出身、東京へ出てのち浜松へ移り住んだが、歌をよくしたという(墓、天林寺)。また、中泉代官(文政年間)羽倉簡堂(外記)が、その娘うめに迎えた中泉代官(天保年間)林鶴梁(伊太郎)の次男鋼三郎の墓が菩提寺(浜松三組町)にある。鋼三郎が米沢藩士雲井竜雄(明治三年、明治政府謀叛の罪で処刑)とともに抵抗し非業の死をとげたのち、妻女うめは明治三年七月浜松で病死したという。
なお明治初年浜松地方に移住した旧幕臣には、名残に住み静岡県庁の委嘱をうけ静岡長野県庁の調査測量をした花井凖(『亀山町史』)、弘化二年に江戸に生まれ三方原へ移住し浜松で琴の師匠をした朝岡福重(ひさ子、鴨江寺に碑)、明治十年に生まれ利町で薙刀の師範をした大島清慎の女すみなどがあり、一般に官員・教員・巡査などになるものが多かった。