内国通運会社によって東京・小田原間を運行されていた駅逓馬車が熱田まで延長され、浜松地方を通行するようになったのは明治九年二月であった。これの促進には浜松をはじめ江尻・三島・大磯などの内国通運分社の請負請願があずかって力があり「郵便馬車」と名付けられた。これは郵便物のみならず余裕ある場合には旅行者や一般積物の輸送も行なうもので一般に与える便が大きかった。その方法は人馬継立(つぎたて)方式で、一便の重量も三十貫ないし四十貫で、郵便脚夫や馭者は短銃の携帯が許可されていたという(『林家文書』、林圭介『林弥十郎伝 偲び草』)。