天竜川には明治元年十月御東幸のさいに船橋が架けられたが、このとき船橋の架設権の行方は、江戸時代を通じ天竜川の渡船権をもって生活をしていた船越一色村(当市船越町)の死活に関する問題であったので、池田村とともに「船橋の儀は私共江被仰付度」(『水野家文書』)と願い出ている。その後天竜川渡船の管理権が駅逓司に移ると、明治四年には東岸源兵衛新田から西岸中野町村に結ぶ線が渡船箇所となった。(『松坂春英雑記』)、渡船賃は一人銭百七十二文、乗馬一匹七百文であったという(『太政官日誌』)。しかしそれでは不便なので中野町村浅野茂平(明治二十二年没、六十二歳。明治二十七年頌徳碑建立)・萱場村鈴木謙一郎等による天竜川船橋架橋の出願となった。これには船越一色村は池田村とともに猛反対をしたが、同六年十一月県の許可によって約二千八百円の費用を投じて七年二月十六日落成した。洲と洲の間に架けられた船橋で、分流に架けた長さ五十間・四十間・八十八間・八十五間の四つの木橋と、本流に架けた五十二間の船橋とより成り、延長三百十五間、砂洲の道路延長三百三十三間半、計六百四十八間の規模であった。維持費として渡橋賃銭は大人一人九厘、駕籠などは種類により一銭から三銭五厘、人力車は二銭一厘、牛馬は三銭であった。その後、明治九年九月洪水で流失し架け替えられた(『天龍川池田の渡船』)。十年六月には治河協力社がこの橋を譲り受け、十一年三月延長六百四十六間、幅十一尺の長大な木橋が完成し、名称を正式に天竜橋とする許可を得た。明治十一年より十七年までの通行人員百九十九万人余、人力車二十二万余挺、馬車九千八百余輌、荷車十四万四千余輌、牛馬六万五千余匹であったという(『金原明善』)。しかし失職した船越一色村・池田村渡船方はほとんどが田畑の日雇、荷車引をして生活を立てたといわれている。十六年に入ると池田村では村民の悲願により天竜川の東岸池田村と西岸富田村との間に熊岡安平を発起人とする昇竜社によって池田橋(延長四二五間、幅九尺)が架設された(『池田村史』)。また同年東岸の匂坂(さぎさか)中之郷村と西岸中善地村との間に松島吉平(十湖)らによって豊田橋(延長四三五間、幅一〇尺)が完成している(『奇人俳人松島十湖』)。【鶴見橋 江ノ島橋】以上のほかに天竜川には各地域間を連絡する明治七年九月竣工の鶴見橋(延長八四間、幅六尺)、芳川には江ノ嶋橋(延長四一間、幅七尺)などがあった。しかしこれだけでは足りようはなく天竜川には大正年間まで十か所(芳川(ほうがわ)村の老間・東金折・寺前、河輪村の弥助新田、豊西村の末島・中善地などの他に龍池村に二か所、中瀬村に二か所)の渡船があった(『浜名郡誌』)。なお掛塚橋(延長四八〇間、幅九尺)が有料橋として開通をみたのは明治三十九年十二月であった。
天竜川の木橋
豊田橋