明治二年、東京・横浜間に開設された電信は、東京・長崎千四百キロメートルにおよぶ架設計画へと発展し、工部省を中心に四年建設工事が開始された。浜松地方では、同年九月電信機線路見分のため工部省官員と雇英人(ハリファックスか)が来て松坂春英宅に宿泊し、コースとして「二川駅ヨリ梅田村・大知波村・大崎村・気賀宿・三方原・有玉・市野・石田・安間、是ヨリ東海道筋ヘ出ル」(『松坂春英雑記』)を見分し、その結果浜名湖北に架設された(なお、明治七年十一月、県令林厚徳から舞坂・新居間の海路架設の電信杭に舟船が衝突して不通になることがあるので注意するよう布達がでているが、この頃には浜名湖南コースも架設されたらしい。この線は明治十五年浜名橋の架橋と共に舞坂・新居間は海底線となったようである)。こうして五年四月には東京・大阪間が開通している。開通に伴ない、同年九月には静岡・沼津・豊橋・名古屋に電信局が創設されたが、浜松は電信線の経過地にあり、静岡・豊橋の中間に位置し県庁の所在地であったにもかかわらず電信局が設置されなかった。このため電信局設置の要望がわきおこり、六年八月県令林厚徳は工部大輔あて上申書を提出するに至った。それには、浜松に電信局が設置されないのは浜松県が静岡県に合併されるという噂があり、「電信局の設置によって、そうした疑惑も氷解するであろう」と述べている。この後数回にわたり、浜松県と電信寮との間に接衝が重ねられ、七年七月にいたって浜松県は民費設置を決め、その費用概算を照会し、設置の回答を得たのは八月であった。