改名布達と苗字(みょうじ)の許可は、その中でも人々の生活にもっとも関係が深かった。改名布達は明治二年七月で(『天王村誌』)、このときから右衛門・左衛門・丞・介(助)などの名をつけることが禁止となった。気賀林右衛門が気賀林に金原久右衛門(明善)が久平に高林維兵衛が維平と改めたのもその例である。ついで翌三年九月に平民にも苗字を許す旨の布告が出て(『高林日記』。苗字の使用は武士のみで、町人・百姓は特別の場合のみ許された)、続いて八年二月には必ず苗字をつけよとの厳命となった。徴兵事務に支障があったからと言われているが、現在のようにすべての人が姓と名を持つようになったのはこの時からであった(一村ほとんどの同姓が生じたのはこのときの強制的の命令の結果という)。