生活改善の布達もつぎつぎ出され、初盆供養・冠婚葬祭も質素にすることなど通達された。地域によっては大念仏や庚申(こうしん)講などを取止めた所もあったが(明治六年五月『浜松新報』第一号)、一般の行事習慣はすぐには改正されず、虫送り行事なども明治三十年頃までは行なわれたらしく、日待(ひまち)・庚申となると今でも行なわれているところがある(中道朔爾『遠江積志村民俗誌』・『都田村郷土実態調査』)。風俗などの面では、明治六年二月には「風俗取締布達」が、同年九月には太政官布告「地方違式詿違条例」が出された。これは主として現在の「軽犯罪法」などに相当し、婦人の断髪や肌ぬぎ・もも・すねの露出を禁ずるばかりでなく、馬車・人力車などの交通に関する取締りなどまでもりこまれている。【男女混浴】とくに男女の混浴については同年二月の「男女混浴取締布達」や、「違式罪目第十二条」で「男女入込ノ湯ヲ渡世スル者」を厳しく取締っている。しかし、近在の農村の共同浴場などでは最近まで混浴が行なわれていた。