「ザンギリ頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われた散髪は明治四年九月に廃刀の自由と共に認められたが、浜松県ではすでに額田県で経験のある林県令によって、六年二月「散髪の儀告諭」が出されたがなかなか徹底せず、同年七月浜松の商人小野江某の少年丁稚三名が伊勢参宮の途次、愛知県下の宮駅(熱田)で邏卒(らそつ)に強制的に髪を切られ、止むを得ず丸坊主になって帰浜し近隣の人々が大いに驚いたようなこともあった(『浜松新報』第二号)。浜松では十九年各町に散髪役員がおかれて普及をはかったが、北馬込の役員竹山重兵衛は旧御家人で、「役目だから止むを得ず取次ぐが、拙者は絶対に切らぬ」とチョンマゲ姿で散髪するよう触れて歩いたという(『浜松警察の百年』)。その他、女性の「おはぐろ」などもなかなか改まらなかった(『都田村郷土実態調査』)。