明治五年十一月、政府は「人身売買の禁止」に関する条例を出したが実効があがらなかった。浜松県では六年二月、「飯売女解放届」を出させ、それまでの芸妓・飯売の名を廃して娼妓と称し、渡世届を出すように命じ「娼妓貸座敷渡世之者心得」という布達を出した。これにより、娼妓は貸座敷(遊廓)と共にその営業を合法的に認められることになった(なお真の解放は第二次大戦の終了を待たねばならなかった)。【貸座敷 娼妓】当時貸座敷は伝馬町に十二軒、娼妓二十六人、旅籠町に貸座敷六軒、娼妓五人であったが、七年一月には浜松宿で貸座敷十三軒、娼妓六十一人であった。