【六年三月 紺屋町】浜松地方の医療の近代化は、明治六年三月、浜松紺屋町に設立された会社病院にはじまる。現在の医療法人にあたるもので、気賀半十郎・平野又十郎・古沢五平・青山徹・その父青山宙平等の出資と浜松県からの補助を得て設立されたものであった。診療は医師荻生汀宅に於て仮病院の形で開始されたが、これには静岡藩医として中泉郡政役所に駐在していた小川清斎(晩年静岡医会の設立に尽力、明治三十三年静岡で没した。六十四歳)も加わっていた。運営の事務的な方面は一切を気賀らが無給で月番交代で勤めたという。県は六年三月に、病気になったら呪術などに頼らずこの会社病院で正しい診療を受けるよう布達を出している(「浜松県布達集」『浜松市史史料編五』)。また、この病院は駆黴(くばい)病院としての役割をもったが、この検査は当時この地方では「浜松管下計」であった(『松坂春英雑記』)。