浜松病院医会

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 【西洋医学 医師免許】浜松病院は各地にさきがけて出来たというだけでなく、その特色は西洋医学の導入と医師免許制度の実施(明治七年八月医制、明治九年一月医術開業試験法、明治十二年二月医師試験規則を定めている)にあった。静岡県立になるとともに七年利町に新築移転と定まり、附属医学教場が開設されたことも画期的なことであった。医学校長は病院長太田用成が兼任し、西洋医学の教授が行なわれた。また、十年に入ると、院長はじめ浜松病院の医師連名で、「医生ヲ勧奨シ其術ト行トヲ督整シ以テ此実績ヲ民間ニ推及セント」するために、県への浜松病院医会設立の建議書の提出となった。こうして同十年四月九日設立された浜松病院医会は、「衛生事務ヲ振起シテ専ラ公益ヲ謀リ之ヲシテ普ク民間ニ布及セシムルヲ要ス」(医会規則)として目的を規定し、さらに医会を大・小区会に分け、管内の医師全員を区医として入会させた。その内容には医師の研修・衛生思想の普及実践といった面が強く出ており、現在の保健所のような機能も併せ持っていたということができる。十二年における浜松病院の規模(職員)は院長一・当直医二・当直医補兼薬局長一・監事一・教頭一・薬剤生二・授業生一・雑務係二であった(明治十二年『静岡県統計資料』)。

福島豊策

 【福島豊策】明治十五年七月県費削減措置により、静岡県医学界の先端を行く存在であった浜松病院も、県立から郡立となり、明治十二年から第二代院長となっていた福島豊策がひきつづき院長となった(天保九年佐賀蓮池藩士族、長崎医学校卒、明治三十六年十二月没、六十六歳、墓所は現在浜松市中沢町の玄忠寺墓苑)。その後、二十年太田用成が再び病院長となったが、民間の医業も漸く盛んになる中で、二十四年その幕を閉じている。
 なお、浜松近傍では明治十四年一月当時の引佐麁玉郡長松島吉平の努力により、浜松病院の分院として設立された引佐病院(気賀に設立、初代院長多々良梅庵)があったが、十九年廃止された。