【九年】なお、この附属医学教場は明治九年五月紺屋町心造寺の側(四三番屋敷)に新築開場された。経費は殆ど県費で、月謝五十銭も本科生よりは徴収せず、級外生も半額にするなどの優遇策がとられていた(「浜松病院医学校場規則」)。ついで十年七月には「壱区域毎ニ弐名ノ医学生ヲ募集シ区費ヲ以テ」支弁することになったが(「区会議題」)、明治十三年に県費節減を理由に廃校となった。十二年の生徒数は三十七名。中川澪忠・富田玄仙(浜松塩町)・木村質文(浜松下垂町)・宮下歓哉・久野貞三(浜松伝馬町)・宮崎保之・渡辺謹弥・本目経徳(浜松連尺町)・堀内覚斎・市野文鼎・阿形井津治・内田良斎(浜松新町)等はその卒業生であった。