明治新政府は神道の国教化を目ざして慶応四年三月(明治元年)神仏分離令を出したが、これが発端となり全国に排仏毀釈の嵐が吹きまくった。浜松地方では報国隊で意気あがった神官が浜松藩に多年念願の神葬祭の許可願を元年十一月に提出したのを契機として離檀運動が起こり、それが波及して隣接の堀江藩も三年九月には神葬祭を公認するに至った。藩主大沢氏(右京太夫基寿)は、大政奉還の際に将軍の建白書を朝廷に伝奏した高家の家柄であるが、当時は総引上げを命ぜられた江戸詰の藩士たちが、領内の寺院に仮泊しているというのが藩の情勢であった。神葬祭が聞き届けられた村々は、十月二十一日本尊位牌を檀那寺へ預け冥加料として一体につき銀一匁五分ずつを納めて離檀することになったが、十月下旬藩役所よりの通達により、寺々の本尊等は宿芦(しゅくろ)寺が引きとることと定った。ついで十一月五日目録として提出した寺の資産(什物・建造物・田畑)は十一月下旬に檀中に下付され、自由に売り払った。その代金の十分の一は本山へ納め、残りは檀中へ引き渡された、という(『庄内の歴史一』)。