廃寺と合併 上知令

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 このような離檀運動に、さらに拍車を駆けたのが四年と八年(地租改正の一環として遂行)の二回にわたる上知令であった。七年に逓減禄制の公布(十七年廃止)などがあったものの寺院のうけた経済的の打撃は大きかった。そして明治六年前後には無檀無住の寺院の合併が続出した。このとき寺院数は約三分の一を減じたという。それでなくても宗門帳廃止・檀家制度の弛緩で、寺勢が往時のごとくでない寺院が現われるのも是非ないことであった。【大山寺 大通院】その打撃の大きかったのは、天台・真宗・臨済・時宗・浄土宗といわれ、浜松付近でも真言宗の鴨江寺・龍禅寺・常楽寺はまだよかったが、頭陀寺・大山寺は臨済宗の大通院などとともに衰退が著しかった。また浄土宗も浜松宿内で廃寺六か寺に及んでいる。時宗の教興寺は飯米一粒もなく五年九月に住職一家は出奔して行方不明となっている(井上菊治『教興寺史先祖の足あと』)。【普大寺】また普大寺は四年普化宗の廃止によって廃寺となり、馬込村は法印(ほういん)村と呼ばれるほど修験者(しゅげんじゃ)(山伏)が多く十六院を数えたが永教院・観音院・玄宝院・文殊院の四院のみとなって、五年に真言宗の醍醐三宝院に帰入した(塚本松平『馬込川沿革誌』)。【二諦坊】また二諦坊(にたいぼう)甚教院は白山社(元魚町)の別当寺で両部修験道場として真言宗に属したが、社僧が管理し檀家がないので坊号は廃絶廃寺となった。その後、甚教院は金山神社の側の仮寺院に移ってわずかに寺格を維持している。
 また神久留(かくる)神社は阿弥陀八幡とも号し神仏両部にわたり神宮寺と瑞雲庵の両寺があったが、分離となって僧侶が社務に奉仕することが止めになった。
寺院名所在地廃寺年
天台宗
 万戒寺平田明治以前
曹洞宗
 宗安寺(天林寺末)高町明治6年
 昌安寺(天林寺末)下垂町
 用源寺(天林寺末)海老塚
時宗
 浄鏡院(教興寺末)鍛冶町
曹洞宗
 万松院(西来院末)高町
 瑞泉庵高町
浄土宗
 蓮光院元魚町
 宗安寺元魚町
 龍漢寺高町
真言宗
 愛宕寺(愛宕神社別当)成子町明治7年
 蓮養院(鴨江寺塔頭)鴨江明治初年
 光明院(鴨江寺塔頭)鴨江
 西宝院(鴨江寺塔頭)鴨江
曹洞宗
 光珠寺(宗源院末)平田町明治6年
普化宗
 普大寺七軒町
浄土宗
 寿徳寺田町
 永林寺田町
 泰用院(玄忠寺末)田町
天台宗1 曹洞宗6 時宗1
浄土宗6 真言宗4 普化宗1