浜松教導職 浜松中教院 五社神社

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 これを浜松県でみると、浜松県の教導職の活動は明治六年に始まった。十月に県内の神官七十の教導職採用願を提出し(『岡部家文書』)、十一月に最初の説教を浜松利町の五社神社で行なった。このとき「開筵ニ付」「神ヲ祀リ、講義終而聴問人ニ御神酒ヲ賜」ったという(『井伊谷社務所日記』)。翌七年八月には浜松中教院を五社神社境内に設立し、翌八年二月には鎮座祭を施行し、その後ここを会場とし、神仏各の教導職が互に交代して説教を昼はもちろん夜も行なったが、十間に三十間の桟敷まで用意する盛況であったという。ちなみに七年末において県内の教導職は神官七十六名・僧侶七百八十四名・士族一名・平民六名であった(『浜松市史史料編六』)。しかし、この浜松中教院も、明治八年神仏合同布教が差止められると、六月十七日に大祭を行なったのを最後に解散された。
 しかし神道側では、東京に神道事務局をおき各府県に分局や支院をおいて布教場を教院と称し、仏教側でも教派によって教院の名を残した。例えば、この地方の時宗の中教院は見付の西光寺であった。
 十年には教部省も廃止され、十七年八月には神仏どちらの教導職も全廃され、浜松地方の神仏分離の嵐も終りをつげた。なお解散後の教導活動では十年八月下浜松神道事務分局が下浜松神道中教院支院橘檍教育を設立し、「放蕩無頼」の「不孝ノモノ」を補導運動をしている。
 この期に活動した神官では間渕古玄(小池村、邑瀬神社祠官、権少講義)・中村大舘(宇布見村、報国隊員、浜松神道事務局副長、明治二十六年没)・橋本茂登治(大瀬村、秋葉神社社司、少教正、明治四十一年十月没、六十六歳)などが知られている。