丸山教

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 このうち、明治初期に農民の生活に影響を与えたのは神道扶桑教から分離して教団を結成した丸山教(富士講の一派として発達)の動きであった。【庄内地方】明治十年代後半から二十年代の初頭にかけて遠州地方(豊田・敷知・引佐郡)に教線を伸ばし、明治十七年には庄内地方一帯に深く浸透し、ついに村櫛村では田畑家具衣類などを売り家業を怠る者さえ現われ、警察がこれを尋問し先達十余名を抱留するという事態が起こり、そればかりか近隣の村々でも説諭をうける者が絶えなかった(『凾右日報』)。【和地】そして同年十一月には、村櫛呉松地区の信者たちの集会を抑圧しようとした和地の戸長役場との間に騒擾が起こり、警察がこれを鎮圧、おもだった信者は検挙され、うち二名は処罰されるという事件にまで進展した。これを当時の新聞の『凾右日報』『自由新聞』『朝野新聞』は、丸山教につき次のように(①~④)に大きく報道している。
 
 ①庄内地方の村々に流行する丸山講(丸山教)の信徒は近頃盛んになった借金党と同じような動きを示し「其筋にても大いに配慮しているようである。②丸山講に入ると徴兵を免れたり、明治二十三年国会開設とともに起こる大乱に際し講加入者のみは平安無事である」と説教している。③丸山講の第一の目的は「財産の平均」であり、天津神は「平等均一に恵みます御心なるに富者あり貧者あるは神の御心に違へり」などと、かの社会党に類似する説教さえする者もあった。④信者に説教して田地家財を売らせてその代金も講費に納めさせ、信者の中には土地を手ばなし生産に熱意を失い、納税を軽んずる傾向もみられたので、当局は取締りの必要を感じている。