町民有志によって町政研究会と称する組織ができ、正式な発会式が旧米穀取引所楼上に開かれたのは明治三十四年八月二十六日。決起の檄文によって会する浜松町民数百人。衆議の結果、七名の調査委員が町費使途や区長会の在り方について、中村浜松町長に糺すことを決議した。九月二日、町長に面接し追求したが、言を左右にして責任のある回答を得られなかったので、町政に関する五か条の要求を渡して引き上げた。しかし、この問題が新聞にも取りあげられ、町民の町政に対する批判の声が高くなってくると、貴族院議員長谷川貞雄(明治二十八年四月東京より浜松松城八六へ転住)の仲裁となり、以下の条件で和解することになった。すなわち、①町会は町議総代(小西四郎・宮坂米吉・川上三九郎・中村藤三郎・鶴見信平)の名のもとに町費使途について謝罪的誓約書を提出し、②中村町長は明治三十五年二月十三日をもって退職し、③町政研究会は解散すること。
【国民党】なお町政研究会の委員の中には国民党の党員の井上剛一・高柳覚太郎の名が見えており、この事件は同派の政友会勢力へ対する反撃でもあった。