これに対し中村忠七一派は深く含むところがあり、三十七年町会議員半数改選の折の報復となった。そのため町政研究会に属する議員候補者より落選者が続出し、政友会中村派の全盛時代を迎えたのであった。
しかし中村忠七を首班とする政友会も党員の増加とともに内訌を生ずるに至った。【高柳覚太郎 井上剛一】なかでも同派の田中五郎七(浜松田町、嘉永五年十一月生、町会議員、昭和三年七月没、七十七歳)らは、反政友会系の高柳覚太郎・井上剛一とひそかに欵を通じ機を伺ううちに突発したのが明治四十年の浜松伊場に新設予定の鉄工場負担金問題であった。時至れりと反政友会系の人たちは二月八日浜松大字紺屋の善正寺で会合し、同月二十八日浜松伝馬宝来亭で町民有志大会を開催し、その決議にもとづいて町当局との交渉開始となった。この決議に賛成するものに井上剛一・高柳覚太郎をはじめ磯部勝次(菅原、明治十年四月生、昭和二十一年五月没、六十九歳)・木俣文四郎(田)・広田辰次郎(連尺)・長谷川安五郎(浜松八幡地)・田中銀蔵(大工)・鈴木勝太郎(栄)・大場虎次郎(三組、元治元年七月生、市会議員、昭和十三年十月没、七十四歳)・伊東安太郎(名残)・岡田金正(後道)・牧治三郎(平田)など国民党に属する者が多かった。しかし、それも衆寡敵(しゅうかてき)せず、そればかりか四十年三月第五回の町会議員改選、これにつぐ四十三年の第六回半数改選は、いずれも政友会の圧倒的な勝利であった。その間におこったのが、いわゆる日糖事件である。