浜松町の敷地提供 中止の飛報

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 その結果、同年十二月には名古屋より用地の諸条件が恵まれているということで浜松設置と決定をみるにいたった。浜松町では政府支出の買収費の不足額は町が補足することとし、ただちに用地買収(敷地予定三十三万六千坪)に着手し、翌年八月には三千二百筆の登記もすみ、次の正月から伊場の北方につらなる丘陵を切りくずして埋立工事に着手、七月には三分の一ほど進んだ。しかるに突如、鉄道庁から浜松への建設計画中止の飛報がもたらされた。まさに晴天の霹靂であった。その理由は日露戦争後の不況のため建設費予算が全額削除されたためと判明したが、事実は工場の位置が機関区の中心より外れているというのが中止の内情らしかった。ただちに復活の請願と決定した。その間の消息を『静岡新報』(明治四十二年一月三十日)は、浜松町は敷地買上につき政府の「指定価格では到底地主との交渉成り難たしを以て約十万円の補足金を支出し関係地主は今回祖先伝来の耕地」を手離して移住し、敷地予定地の伊場・東鴨江を浜松へ合併し、地価は五、六倍に暴騰をみている。「然るに鉄工場の廃止となるや浜松町は、一大打撃一大損害を蒙り、其公私一般に蒙るべき惨憺たる窮状は実に想像に能はざる所なり」と報じ「浜松町民の請願に向っては十二分に同情すべき所なりとす」と結んでいる。工場予定地の伊場を視察のため鉄道院総裁後藤新平が地元浜松の用意した歓迎会にも顔をみせず車内を宿所にあてて話題をまいたのも、このときであった。