一同二百余名は日比谷公園に勢揃い、代議士沢田寧などの案内で首相官邸に赴き、代表(代議士沢田寧・県会議長中村忠七・浜松町長鶴見信平・陳情委員長鈴木貫之・同副委員長佐藤章次)が桂首相に面会「鉄道院浜松工場予算復活之議ニ付陳情書」を手渡したが、確答は得られなかった。そこで陳情団は政友会の首脳に面会し、政党として政府に復活折衝の労をとるという内諾を得たのであった。その結果二月八日首相と政友会総務との間の交渉問題として復活が協議されるという確報に、一同やや愁眉を開いたのであった。その結果、「浜松鉄工場復活の決議を為せりとの急電浜松町に達するや町民の狂喜一方ならず」「山車を引出したり芸妓の踊を催すところもあった」(『静岡新報』)と伝えている。いかに浜松町民の関心が深かったかよくわかる。【町民歓喜】陳情委員中村四郎兵衛(慶応二年上万能村生、田町中村家へ養子、市会議員三回、衆議院議員一回、昭和五年五月没、六十五歳)がまずまっさきに帰浜したときは、浜松駅は歓迎の町民で身動きもできなかった、といわれている。かくして二月十日にいたり政府と政友会との間に、政府提案の南米航路補助費百二十二万円を可決する交換条件として浜松鉄工場費百九十八万円を政府が追加予算として提出するということで、一挙に復活の目途がついた。【計画縮少】建設と決定はしたが当初の計画は縮少され、工場用地六万五千坪以外の地元側の用意した二十余万坪の土地は地元へ無償払下となり町有地となった。こうして四十三年より再開された埋立工事は翌年にはほとんど完了した。【大正元年】ついで工場も竣成し大正元年(一九一二)十一月一日の開業となった。町民は初めてみる高さ(四〇メートル)の大煙突から上る煙に驚きの目をみはったのであった。明治三十九年から六か年目にして町民の悲願が達成されたのであった(日本国有鉄道浜松工場『四十年のあゆみ』、『浜工労働運動史』)。
鉄道院浜松工場