日露戦争 浜松婦人会

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 つづく日露戦争は世界の大国を相手とする戦争で国家にとって大きな試練であった。【銃後の後援】浜松町でも日清戦争の経験を生かし、軍隊歓迎、軍資の献納、戦病死者の町葬、家庭の保護なども銃後の後援も一層適切に行なわれた。長谷川千瀬子(浜松町松城、長谷川貞雄夫人)を会長とする浜松婦人会(明治三十五年創立)の募集した遠州一円の慰問袋は一万五百袋に達した。【森鷗外】森鷗外は明治三十八年十月浜松婦人会(副会長内田光子宛)のために「せめては草(ぐさ)」を作って激励している。【浜松駅接待】浜松駅通過の軍隊は、浜名郡犒軍団(浜名郡民によって組織された浜名郡各駅通過軍隊の犒軍を目的として結成された団体で浜名郡役所に事務所をおいた)規程によって、浜松町では町内各区に人員を割当て、昼宵明の三部の交替制で、昼夜間断なく浜松婦人会とともに歓送に従事した。浜松駅には茶・煙草・菓子などを供えた供茶休憩所を設け、ピアノを置いて弾奏し慰安に心を配った。浜松町出身の従軍者五百二十五名、戦病没者三十三名、初めて町葬が行なわれた。豊橋の歩兵第十八聯隊、静岡の同三十四聯隊所属が多かった。【国光館】なお休憩所は戦後に浜松尋常小学校庭に移転されて、国光館と名づけられ校舎に用いられた。

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