遠州大念仏は浜松郡方役所が明治四年に「盆中大念仏を唱、大勢連立村々立廻り候義不相成」(『細江町中川区有文書』)と禁止政策をとったこともあって、その用具を売る村も現われるほどの衰えであったが、西南戦争から日清戦争を経て忠霊の供養招魂祭がさかんになると、ようやく復興のきざしをみせてきた。松島吉平(十湖)は引佐麁玉(いなさあらたま)郡長の当時、これを奨励し自らその歌詞を作ったと伝えられる。もっとも流行したのは日露戦争後で、浜松町高の正福寺(半僧坊)などには近在からの念仏団が集り、大いに賑わったものである。その後大念仏は、各村が思い思いに行なっているにすぎなかったが、渡瀬茂三郎(名残町、現在鹿谷町)などの尽力によって、昭和五年一月西遠地方各村の大念仏の参加をもとめて犀が崖宗円堂に本部をおく、遠州大念仏団の結成をみている。参加四十余組であった(「特集遠州大念仏」『土のいろ』復刊第十七・十八号)。