【下石田報徳社】これを静岡県でみると、遠江地方はもっとも早くから報徳思想がひろまったところで、弘化四年(一八四七)長上郡下石田村の神谷与平治森之(与平治は神谷家の家号であった)によって創立された下石田報徳社が、遠江国における最初の報徳結社であった(『浜松市史二』参照)。教義の内容は、伊勢皇大神宮・氏神を尊び、親に孝行、主従の礼を守り、家族円満に家業を励み、「農間朝夕致丹精第一繩綯並沓草履草鞋等」を作りその製品を積立て「一同相談ノ上万端取計」い、積立金となし、これを「連中評議之上致入札、無利足年賦ニ貸付、元金皆済之上末壱ケ年礼金相納」め、その他「村為ニ相成候事ヲ談合」し合うといった趣旨で、与平治森之(安政六年没、八十歳)は安居院庄七の「報徳作大益細伝記」の方法を迂遠といわれながらも自ら実践し社員を教化してその範を示したが、その子与平治森時(丑太郎、明治十五年三月没、七十四歳)もよく父を助けて勧誘につとめたので、下石田報徳社の名が大いに知られるようになった。つづく与平治正信(森時の弟、力伝ともいう、明治三十八年十月没、八十歳)もまた各地を廻って報徳の教義を説くとともに農学社の設立にも尽力した(明治三十年「神谷氏報徳碑」)。下石田報徳社の社員の作る繩は報徳繩、耕作法は報徳打、苗代田を改良すれば報徳播、田植を報徳植といって、人々に迎えられたという。【繰返し耕法】なかでも範となったのは洪水で堆積した砂礫を均し繰込んで埋もれた耕土を掘りおこすという「繰返し」という耕法であった。森之の時代は天竜川の水害につづく天保の飢饉の直後であり、森時および正信(力伝)のころも天竜川の出水が続き、ことに万延元年(一八六○)五月には白鳥村はじめ九か所で破堤し浸水は合流して豊田・長上・麁玉・敷知の四郡を横流して遂に浜名湖に注ぎ、中泉・浜松間は舟で渡ること百日に及んだ(『浜名郡誌』)という大洪水で、そのあとの荒蕪地をもとの耕地とするのは手数でも辛抱強くこの「繰返し」法によって耕地に復するほかなく、つづく明治元年(一八六八)五月にも東海道は池田村から下石田村まで船で渡るという大出水であったが、このときも下石田地方の農民はこの「繰起し」法によって、苦難を克服し得たのであった。【十五年】正信は明治十五年西遠農学社(後の三遠農学社)を松島授三郎とともに組織し、農事改良に力を尽している。「朝夕に星見てなせし家の業尽す誠を神祖知るらむ」は正信の感懐であり、当時十六歳で父正信を助けて「繰返し」に従った長男喜源治は「わが子孫たるものはよくこれを銘記せよ」と書き遺している(神谷昌志『神谷与平治正信』)。