遠江国報徳社 報徳の教義

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 「繰返し」耕法にみられるように報徳の教義は天竜川の水害に苦しむ農民の願望と自然と一致し、老間・都盛・上島・半田等と各地に及びその普及はめざましいものがあった。【遠譲社】結社も遠譲社(明治四年福山滝助組織、森町・気賀が中心であった)とか報本社(森町の新村里助組織)というように増してきたので、浜松県下を統轄する総社設立の声がおこり、浜松に総社「遠江国報徳社」(遠譲社は岡田良一郎と意見があわず、加入しなかった)が設立されることになった。【八年 玄忠寺】ときに明治八年十一月で、浜松宿田町の玄忠寺内の報徳会議所(第一館という)に本部をおき、支部を見付宿(第二館という)・掛川宿(第三館という)においた。社長は岡田佐平治(嗣子良一郎がつぐ)、幹事に神谷喜源治・小野江善六・名倉太郎馬などがあった。報徳の道義を講述し、農工商業改良の方法を研究するため毎月一回会合し、その目的を達するために土台金・善種金・加入金の制度を設け、その徹底をはかった。土台金とは入社の際の義務金などから成るいわゆる基本金のことで、善種金とは勧業の資金に充つる出資金のことである。これは一口を十円と定め五分の利息を付して、一口百円に至ればその半額を下渡しするもので、その傘下の町村社へ無利息五か年賦として貸付、六年目に年賦一年分を納めさせるもので、加入金とは預金を興産資本もしくは子弟の教育金の名義で蓄積する制度である。こうして貸付金は明治十一年より同三十六年までに四万二千余円に達し、特に明治二十五年・二十六年及び三十三年度以降が多かった(明治四十一年『静岡県報徳社事蹟』)。【信用組合】これによって種々の事業が行なわれたが、その一例として明治三十五年設立された浜松町報徳信用組合がある。信用組合は明治三十五年産業組合法の公布によって発達したもので、静岡県では報徳社員によって組織されたものが多かった。報徳社の目的とよく合致するものがあったからである。