さて、このように報徳の諸機関が浜松におかれたのは、浜松が遠州第一の都市であったことによるが、浜松の商人層には小野江善六のような厚い報徳の信奉者があったことも見のがすことができない。善六は浜松田町(屋号絞屋)の人で、安居院庄七の門下、同志とともに報徳の仕法の普及にあずかって力があった。
【田町の秋葉鳥居と報徳】文久二年田町が設けた秋葉鳥居(『浜松市史二』参照)を青銅巻にするために町民が拠出した寄付金が紛失するという事故が生じたときにも、善六の主唱によって町内こぞって報徳の仕法を実施し、松飾・雛祭・初凧・盆行事・氏神などの年中行事をはじめ婚礼・葬式等の諸費の節約を実行し、その積立金をもってよく所期の目的を果し青銅巻となすことができた。加わるものに庄屋河合源左衛門・小野江善八・年寄中村藤吉・川合善助・小池与兵衛・役人代福村藤太郎・年貢方小西甚三郎・諸払方安川儀兵衛・勘定方田中五郎兵衛ほか百十九人であった。【荒地開拓】また善六は荒地開拓のため、慶応元年島之郷四つ池の払下げをうけ、ここに二町八反歩の田地を開き移住者を募ったり、四つ池のすぐ上の平坦地におよそ一町歩の茶園を開いたり(『静岡県茶業史』)、明治七年佐鳴湖(さなるこ)岸小薮(こやぶ)の開拓を企てたり、浜名湖岸篠原村地先四十町歩を埋立て水田とする許可を受け報徳の実践に努力している(『浜松市史史料編六』。浜松元城報徳社内頌徳碑)。