【鍋屋】田中五郎兵衛は田町の金物商の鍋屋の人。庄七が小松の袴田勘左衛門宅で罹病するとこれをひきとり、町医木村玄斎を招いて看病した。文久三年八月庄七が死亡すると、五郎兵衛は浜松社中と語らって田町玄忠寺に埋葬した。葬儀の参列者には前記の人々のほか上石田村松島弥右衛門・笠井村嘉右衛門・都田村孫四郎などがあった(明治三十九年安居院庄七頌徳碑、浜松元城報徳社内)。
【報徳店】なお、当時報徳の仕法による浜松の商店には「此方報徳に付諸品改安売、現金、懸値なし」などと記した張り紙がさげてあったので、これを報徳店といった、と伝えている。