松島授三郎 西遠農学社 三遠農学社

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 松島授三郎(明治三十一年没、六十三歳)、豊田郡羽鳥村の人。明治元年(一八六八)天竜川の堤防が決潰すると、下石田村神谷与平治と相談し、荒蕪地をよく開墾した。【十五年】八年引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、十二年、野末八郎を社長とする農学誠報社を設け村民の風俗の矯正に力を尽したが、十五年居村に西遠農学社を創立、夜学部を設け、自弁で農学の研磨を主とし、かたわら道学を講じたが、入社を乞うもの千余名に達したので、気賀、奥山に支社を設けた。十九年西遠農学社本館を設立、その説を聞くものも次第に増し、遠州において七郡、三州において二郡に及んだ。三遠農学社と改名、社員の数三千余名に達したという。西遠農学社が明治十八年十一月四日呉松村鹿島神社で催した農談会は、出席者二百余名、松島授三郎の社側朗読、神谷力伝の貧富図解、松島吉平の救済策などの演説があって懇親会に移り「満場沸くがごとく夜十一時散会した」という(『静岡大務新聞』)。明治十八年七月天竜川がまた決潰し豊田郡・長上郡下浸水の際、農学社員は各村の残苗二万四千余把を被害民に贈って、その窮を救った(『嶽陽名士伝』『静岡県人物誌』『引佐麁玉有功者列伝』)。