松島十湖(大正十五年七月十日没、七十八歳、墓源長院)も天竜川の氾濫が生んだ報徳家であった。豊田郡中善地の人。はじめ吉平、のちに十湖と改名した。【報徳運動】十九歳のころ福山滝助について報徳の教を学び、二十四歳のとき三才報徳社(遠譲社中善地支部と改名)を組織した。明治六年中善地村戸長、九年浜松県公選民会議員、同年県会議員、十一年第十二大区二十九小区の区会議員、中善地村々会議員、遠江国州会議員、十二年政治結社己卯杜の副社長。【引佐麁玉郡長任命 十四年】十三年一月静岡県十六等出仕を命ぜられ、十四年七月二十六日引佐麁玉郡長に任ぜられ、任期五か年、同十九年八月十六日退職した(明治四十二年大橋又兵衛『奇人俳人松島十湖』)。任期中、松島授三郎の西遠農学社のためにも力を尽し、引佐郡下の報徳思想普及に努めた。【政治運動】退職後は政治運動に入り、二十二年十二月沢田寧・鈴木貫之(前述)等の有志と遠陽大同倶楽部を組織、浜松報徳社で結党式を挙行した。党員六百余名。しかし翌年一月脱退、東京大同倶楽部に走った。その後第一回国会議員の選挙に立候補して落選した。【豊田橋 明善評】天竜川についても心を用い、明治五年匂坂(さぎさか)村との間に渡船の開通を唱えたが(同十六年豊田橋として実現)、金原明善とは意見の対立することが多く、十一年治河協力社の人夫動員の際も農繁期を避くべしと建議し、天竜川通流議会を組織したり、十三年には治河協力社が名のみでその実のあがらないことに言及し、ことに明善が「政府に財産献納の際、廃物同様の家具小桶まで『一金四銭也、但底なし』と註を加え、献納財産金六万三千五百十六円七銭六毛中に加算」したこと「政府よりの交付金額中の幾分を、官に五分利をつけて返納することになったとき、丸尾銀行の株を利用して理財家となったこと」(『奇人俳人松島十湖』)などをあげて、明善の行動を非難している。そうはいいながら両者ともに互いに畏敬するところがあった。後日になるが大正三年三月に十湖(六十五歳)・明善(八十三歳)は羽鳥の源長院で会談し和解している(源長院に記念写真がある)。【供養碑 著書】十湖は報徳の精神を履み、明治十年には安政以来の天竜川水死者三十七名の供養碑、同年上善地に西南戦争戦死者の招魂碑、十六年奥山半僧坊で西南戦争戦死者供養大念仏、十七年渡辺謙堂(兵治、金指の人、『浜松市史二』参照)の墓碑を作り、また自費で『引佐麁玉有功者列伝』を著して地域のために尽した人の伝記の集成をしている。【俳人十湖】十湖は俳人としても知られているが、俳諧の道にいそしむのは政治運動を離れてからである。酒を好み、無欲で、おのが葬式を生前に営むなど奇嬌の行為がしばしばあったが、その一生を貫くものは報徳の精神であった。
松島十湖