さて報徳社の状況をみると、経済不況の明治十七・十八年には農村救済運動の一翼をになって増加数著しく、特に四十年より四十四年の五年間には一躍百九十七社と激増をみている。これは日露戦争後の国民精神の弛緩を憂い、四十一年戊申詔書を渙発し国民精神の作興をよびかけた政府の方針が、報徳思想と一致する点が多かったためである。【金次郎像】報徳思想が教育にとりいれられ、小学校の校庭に薪を背負いながら勉学にはげむ二宮金次郎(尊徳)の石像が立てられるようになるのも、このころからである(後述、第五節第一項)。
報徳社の全盛時代